尾瀬〜地上の楽園の秋〜

尾瀬を訪れた有無に関わらず、
誰もが一度は聞いたことのある歌、

 夏がくれば思い出す
 はるかな尾瀬 遠い空

尾瀬を歌った名曲「夏の思い出」である。
同曲は、昭和24年(1949)、NHK「ラジオ歌謡」にて
初めて放送され、その美しい作詞とメロディにより、
日本中に尾瀬の名が広まるきっかけとなった。

尾瀬沼、尾瀬ヶ原は福島県、群馬県、新潟県にまたがる東西6キロ、南北2キロに及ぶ日本最大の湿原地帯であり、
何百種類もの高山植物が自生する。

尾瀬の名が全国に広まるまでは、高山植物や地質学者、その学生たちなど、入山者もまれな地だったが、
歌の広まりとともに訪れる人々が急増した。

しかし、あまりの人気ぶりに、湿原植物が大勢の足によって踏み荒らされることになり、
またたく間に約1ヘクタールの湿原が裸地化されるという事態に陥った。

その後、1950年代より木道設置が開始され、同時に緑もなんとか回復を見せたという歴史を持つ。
そして木道設置は現在でも続けられ、その総延長は約57キロにも及び、
今では尾瀬に欠かすことのできない象徴的な風景となっている。

やさしい影 野の小径(こみち)

平成19年、日本で最も新しい、
29番目の国立公園が誕生した。

『尾瀬国立公園』である。

特別天然記念物にも指定されている尾瀬は、
4県にまたがる山岳地に位置する日本最大の
山岳湿原はじめ、尾瀬ヶ原と、ふたつの盆地、
その周囲に位置する百名山などからなり、
総面積は約37,000ヘクタールに及ぶ。

東京から車でおよそ200キロ、
関越自動車道を走り尾瀬へと向かった。

有名な水芭蕉の時期も過ぎた尾瀬は
オフシーズンを迎えて、マイカー規制も解かれ、
鳩待峠の駐車場まで上ることができた。

『国立公園 尾瀬』の看板を横に山道へと
足を踏み入れると、急な下りの石段が続き、
やがて左前方から川のせせらぎが聞こえてきた。

鳩待峠から入山すると、しばらく続く下りの石段。一歩足を踏み入れると辺りは静寂につつまれる

木道を一列になって歩く人々。行きと帰り、それぞれ一本ずつの道


鳩待峠から入山して約15分、待望の木道が始まった。
これがかの有名な尾瀬の木道かと嬉しくなり、一歩一歩、しっかりと足を踏みしめて歩く。木道の幅は約50センチ。

一本につき一人で歩くのが精一杯だ。

木道の設置してある場所は平坦な地だが、時には川縁の高所を歩く箇所もあり、
つい足も鈍るが、何処までも続く木道は辿っていて、ただ楽しい。

すれ違う人々も一本の木道を一列でやってくるため、
それが何人ものグループだと、
山中で出会った人への挨拶「こんにちは」を
連呼することになり、少々忙しい。

尾瀬では環境保護のため、
木道以外への立ち入りが厳しく制限されている。

また、昭和47年から「ごみ持ち帰り運動」が開始され、
現在日本中に広まっている同運動の発祥地でもあり、
日本の自然・環境保護運動の象徴となっている。

尾瀬は花の宝庫でもある。名高い水芭蕉からニッコウキスゲ、キンコウカ、ワタスゲなどあらゆる種類が咲き誇る

途中、いくつもの花々に出会ったが、
名前を知っているものがきわめて少ない。

それでも何とか思い出してみようと
足を止めて花に見入ってはみるが、
花はただ静かに風に揺れるだけで、
その頭上を野鳥たちのさえずりが、
笑うように響き渡る。

花々の隣には、何本もの巨木が苔むし、
幾重にもからまりあった根が、
尾瀬の一万年の歴史を静かに物語っているようだ。

静かで深い尾瀬の山中に、
うっそうと茂った木々の木漏れ日に照らされた木道が、
どこまでも続いている。

はるかな尾瀬 遠い空

尾瀬ではよく見かけるボッカ(歩荷)さん。シーズンには何メートルもの荷を背負い歩く

尾瀬には珍しい植物が数百種類も自生しており、
長年人々に愛されてきた。

しかし近年、尾瀬外から持ち込まれた外来種が
急激に増加、元来成育してきた在来種の存続が
危ぶまれてきている。

そのため尾瀬では群馬県側の入山口すべてに、
入山者の足についている恐れのある
外来種子の除去のため、種子落としマットが敷かれ、
在来種の保護に努めている。

尾瀬では自然保護、生態系保護を目的に、クマと人間が出会わないよう、注意を呼びかけている。ツキノワグマは臆病な性格で、おどろかせたりしない限り、人を襲うことはないといわれている。しかし好物の新芽や水芭蕉の実がなるシーズンには細心の注意が必要だ

また、尾瀬にはツキノワグマが出没することでも
知られている。

尾瀬のクマは、木道を横切ったり採食をしている姿が
圧倒的に多く見られ、秋のシーズンは、
水芭蕉の実を食べていることが多いと聞いた。

尾瀬に生息するアカハライモリ。可愛らしい姿をしているがフグに似た毒を持つ

尾瀬ロッジを抜けると立ち並ぶ木々もない、平坦な地に出た。
さらに足を進めると突然目の前に、広大な尾瀬ヶ原が広がった花もなく、
どこまでも続く草原に高い空。
これが名高い尾瀬のワンシーンだと深い感動に出会う瞬間だ。

あちこちに点在する小さな沼のような池塘に青空が映って美しい。
のぞき込んでみるとと小さな白い花をつけたヒツジグサの葉っぱの間を、
アカハライモリが不器用な格好で泳いでいくのが見てた。

池塘とは、平らな湿原の凹部分に水がたまり、植物による泥炭層の堆積が行われなくなり、そのまま水たまりとして残るようになったもののことをいう

木道に作られた休憩場でリュックを降ろすと
そのままごろんと仰向けになって
両手を思い切り天に向かってあげてみる。

空、山、風を、つかまえてみるかのように
高くたかく手を伸ばす。
人気のない秋の尾瀬ヶ原に見とがめる者は誰もいない。

そよぐ風に真っ青な空、
見上げながら思わず口ずさむ歌は、

はるかな尾瀬、遠い空

そのままどのくらい時間が過ぎたのか、
ふと気づくと辺りは朱に染まり始めていた。

いつの間にか眠ってしまったようだ。

急いでリュックを背負い、もう一度広がる尾瀬ヶ原をぐるっと見渡してみた。

やがて夜が訪れると、どこまでも青白い月光の下、クマが、狸が、草が、風が
銀色に波打つ草原で自在に遊ぶのだろう。
一万年前から変わらぬ、尾瀬の自然にだかれながら。

池塘に浮かぶヒツジグサは白い小さな花を咲かせ夕方に萎む。未(ひつじ)の刻に花が咲くからヒツジグサという。(未の刻:現在の午後2時、またはその前後2時間)

クマとの共存を求め、木道の途中にはクマよけの鐘が設置されている

尾瀬ヶ原に夕焼けが訪れた。今日も一日、静かな時間が尾瀬をゆったりと包んでいく